<<飯塚晴夫的徒然草>>
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うちに来るスズメです。
スズメも好きです。(^o^)'080210.
醍醐寺で見かけた不思議な小鳥です。20050426.
どうやらルリビタキという小鳥のように思います。とても可愛い小鳥です。(^^)'050930.
ルリビタキには雄雌で姿や色がちがうようで、オスは青っぽくてカラフルですが・・・、私はこのメスの色形のほうが好きです。
ちなみにこれも、「ルリビタキ」でGoogleのイメージ検索をすれば、かなりの数の画像ファイルが得られます。'051028.
<死刑・殺人>:
冤罪と死刑制度は別の問題である。冤罪は殺人事件だけに起こるものとは限らないし、また、死刑制度は排除のありように、極限を含む制度というだけのこと
である。 死刑執行は殺人であり、殺人はまた死刑執行行為でもある。死刑制度は、国民どうしは対等に扱われねばならない、という公務原則によるものであろ
う・・・。 殺人(=排除)のありようの妥当性が、加害者・被害者(・・・被害者の場合は、殺害された(=排除された)ことで国民としての対等性を奪われたので、
国家公務員(司法)による、国民対等の被保護原理に係る、代理代執行という公務が適用される)双方の、排除バランスで、
国民としての主権の存在を公的に証明される形(これが死刑執行)、をとるのだと思う。
ちなみに、”死刑制度反対”という世界の流れというものがあるにしても、個人個人の犯行の内容の違いはもとより、また、体・風土や意識のありよう
(人生観・世界観・宗教観)、が人それぞれ違うように、流れ多数派のありよう(世界、具体的に何を指すか・・・)必ずしも、そのケースに妥当であるとは限
らないし、 どのような意見・主張であっても多数派となるとおのずからその意思・意見を支持する強制力を持ちたがることもあり、
今回はどちらにつくか、私の言葉で意見を述べさせていただきました。'080515.
平安神宮の鳥居の南を流れる疎水です。こ
の画面の奥の左には 京都市動物園があります。
'090421.
中華人民共和国の憲法によれば、第1章24条[社会主義的精神文明建設の強化]の後半で、
「〜人民のあいだで愛国主義、集団主義と国際主義、共産主義の教育を進行し、
弁証法的唯物論と史的唯物論の教育を進行し、資本主義的、封建主義的およびその他の腐敗した思想に反対する。」と思想に関してかなりの制限があり、
また第2章35条[言論・出版・集会・結社・行進・示威の自由]では
「中華人民共和国公民は、言論、出版、集会、結社、行進、示威の自由を有する」ともあるので、神社への参拝などへの自由はあるのではないか、とも思える。
そして、 第2章36条[宗教信仰の自由]の終わりには、
「宗教団体および宗教事務は、外国勢力の支配を受けない」とも表現されている。
これは、他の国においても尊重される性質のものではないのだろうか?それをふまえて小泉の神社参拝は日本人が政教分離で、国内で問題にする性質のものであ
ると感じるのだが、
ちなみにわが国の憲法では、3章20条3項「国や公共団体は、特定の宗教のための宗教教育その他どのような宗教的活動もしてはならない。」とある。(参考
まで)。20050620.
私は霊というものは、生物である人の生活から、独立して存在するものとは思っていないし、
それは各種人のセンサー(感覚器官)や言語コードをともなう人の神経活動を称して述べているものだと認識している。
だから霊という”(体から離れて活動・成長する)独立したもの”は存在しない。そのように思っている。('050621).。
つまり、身体あっての精神単位さ。(^^)'051028.
(靖国)神社のお札に名前を書いたり、小泉氏が拝みに行っているとしたら、それはやはり宗教であろうと思える(散歩ではなく)。
総理大臣の、任期中は政治家としての宗教活動の制限を受けるのは妥当だと私は思う。
宗教は今拝まねば神様は逃げるというようなものではないと思うから・・・(私は無神論者だけど)。'051004.
政治家であって、議員期間中に時期を選んで参拝するというのは、宗教的活動の、”主張態度”であるとして、違憲である。
亡くなった私の父はよくこう言っていた、「アヒルと同じ格好して、アヒルと同じように歩いて、アヒルと同じように鳴いていたら、それはアヒルとみなされ
る。」と。首相のそれが本心であろうとなかろうと、参拝は信仰とみなされる。
信仰は日本では自由であるが、主張する時期・内容は法律に携わる者として、配慮しなければいけないと思う。(^^)'060125.
日本に宗教は無いと小泉さんも言えばいいのに、そしたら落ち着くのに。霊を慰めるのにあるとされるのが宗教だと思う。現代風に
言えば癒しというべきか、また別の言葉では、気休め(言葉の好き嫌いは別にして)だと思う。(^^)'051214.
ちなみに、国や公共団体とは、国の運営をつかさどる行政府自体である内閣閣僚(時の国家・・・)、や国家公務員という公共の団体も指すのではない
か・・・。そう思うのだが、・・・。
'080816.
それに、公務外の立場で参拝しているようだけど、それでは、休日ごとに、国の構成物にあたる国家公務員の”身分保障”を、国に、返却しているか?
。してないと思う。だとすると、休みでも国家行政府公務の構成員であるのは、間違いないのだから、靖国神社の参拝は憲法を無視していることになるのではな
いか・・・。 法を作り、その法の下に運営する業務に携わる立場の者が、個人の立場で参拝するのだから、とズルをする(言い訳に終始する)。
手本がそれでは一般人にも、そう思いズルイ行動するものが増えても不思議ではない、そのように感じる。
公務に携わるから、それに見合った身分保障が与えられるのだろうから、公務員の立場で宗教活動をやりたければ、法を変えてから行うか、
公務の立場から降りるべきであろう。その者はきっと公務員に向いてないのだと思われるから。何の為に公務につきたがるのか、・・・、聴いてみたい。
'080817.
日本において、君が政治団体という会社のメンバーになっていて、会社の方針が、”個人で何宗教に属していてもペナルティーは科さないが、
会社に勤めている間は、社員の身分で、宗教活動はするな”、と決めてある場合に、宗教活動をやったらまずいだろって話。
'080821.-'080901.
水を飲みに来たニホンミツバチです、とても可愛い。また、会えてとても嬉しかった。(醍醐寺境内)'060309.
ちなみに近くの沢には沢蟹もいたのですが。子供や、その親御さんが頻繁に沢に入っては、獲るものだから生態系のバランスを壊すことになったようです。10
月21日に小橋の下南側で
男の子が2人「カニが、おもいっきり減ったな」と言う声を聞いた。増えるより多く採れば、その種は必ず消えていくという現実があり、採るのが個々人でもそ
れが集まれば小さな沢での
カニの生息数などあっという間に消滅させてしまう結果をむかえる行為であることに気づかない、のは子供だからだろうか。そうではないと思う。
沢に入る事を醍醐寺は禁止する、進入禁止テープが張り巡らされたりもしたのですが、いつの間にかそれも壊されたりバラバラになったりしているありさまで す。
仏教のいいところは自然環境を大事にしているところでしょうか、(キリスト教やイスラム教にはそれは感じられませんが)それもあって、私は坊様は好きで
す。なんとか醍醐寺には自然が 残っていってほしいものだと思いました。'061028.
<ミツバチの病院>
今夜、この部屋のコンピューターの上に現れ、その後、畳の上にうずくまっていたガリガリに痩せた
ミツバチ。衰弱して、もう一歩も動けないようなので、蜂蜜を水で溶いたものを脱脂綿に浸し、その上にミツバチを置いてやったら、羽を伸ばして、少し飲む
仕草を見せていた。そのあと横たわって、動かなくなった。(お尻は動いているから生きている)。ツマヨウジで蜂蜜をすくい脱脂綿のミツバチの口近くの蜂蜜
濃度を上げてみたら、反応していたが、体がもうゆうことをきかないようで、手助けして起こしてやって吸えるようにしたが、・・・。そのあとは横になったき り
活動をする気配はなく、ツマヨウジにつけた一滴の水を口・舌?に与えてみたが、反応はなかった。そこで様子を見ていると、眠っているかのようにスヤスヤと いう
感じでお尻も動き、気配は静かになっていた。
ミツバチの寿命は数ヶ月だ
から、以前助けたミツバチは回復して飛び立ったが、このミツバチは衰弱が激しくて、多分、時間の問題のように感じている。(眠 れるように
灯りのあたらない仕事机の上に置き換えて、私は自分の作業にかかったというわけさ。・・・諸行無常。
'081011.
追伸:・・・このミツバチは翌朝冷たくなっておりました。ちなみに僕は虫にも好き嫌いがあって、コップや筆洗器などの容器の水に落ちたクモ(a jumping
spiderと私は
種類わけしてますが)など発見が早いと、かなりの確率で助けることができますが、ゴキブリは残念ながら、むごいですが見つけたら専用ナイフで切り殺してま す。
(気持ち的には、1対1の対決の結果です)。
'081015.
<老人の価値>:
老人が増え、若者が少ない、と若者に経済的負担が大きいという意見があるが・・・。老人が死んだあと若者が老人から受け継ぐ国土の一人当たりの利用占有率
は、老人たちの世代に得た頭数割りより、増える。そして100歳にもなれば、老人は死ぬ。言わば、その世代のあと、若者一人あたりの国土利用占有率という
遺産が増えることになる。それを思えば、老人の残り少ない人生を苦しめることなく日々過ごさせることは自然の理にかなっているのではないか。赤ん坊が価値
高く、老人が価値低いわけではない、”国民の人生”が国家に価値をもたらすのだ。
'080525.
『壊れた頭で徒然に・・・』
'080531、今日の京都新聞朝刊の凡語を読んでいて思ったんだけど、国連は世界政府を目指しているのか・・・、
それとも既得権益を維持したいことで成立している集団なのか・・・。
世界政府を目指しているのなら、指導部は常任理事国ですがその理事国制度が必要ならば、選挙のような形で、構成メンバー国から選ばれるべきで、
国としてね・・・、だから常任(これは独裁・専制と同じ)という構造自体おかしいのではないか・・・。これは世界政府としては機能していないように感じ る。
事務総長という支配人に運営をゆだねる形をとってはいるようだけど、最終決定権は彼には無いのでしょう?拒否権が邪魔して・・・。だから結局、国連という
世界政府もどきを誰が(どの国が)議案を出し、それを提示した国・代表が、ゆだねられた世界政府もどきの力を背景に、国連決議の意向として他国に強制力を
及ぼすか、
が実行される形なのだろうと思う。しかし、この世界政府の発想は地球上の人々の諸権利諸義務及び合意が無ければ(生活及び認識の違いをも保障されねば)、
成立しないのではないか・・・。
その成立しにくい保障の1つに人権があるように思う。人権は極論すれば、その人を主権を認めつつ養うということだから・・・
(養うということは常に、飼うという意識をはらむ危険性を持つが)、豊かな経済的物質的占有領域を持つことでできる保障であるように思う。
それと競争という、何かを得たいという思いが他人と同じ対象物で共通した場合(ぶつかった場合)に起こる、避けられない争いの現実がある。
生きるってことは競争の連続であるし、教育だって中立ではいられない、家族を増やすことだって、その分どこかから有形無形のエネルギー資源を獲得する競
争にダイレクトに変わる・・・。ちなみに、貧乏人は麦を食えと言った池田首相、・・・人権も油断すれば消えていく、これも現実。備えなければ、100戦し
て危うし。(人生の競争で負けてばっかりの私、ははははは(^^;)>
<裁判制度>取調べのさいの録画、録音など、捜査の過程がよりよくわかることは、裁判や司法判断に必要であることは言うまでも無いが、
死刑執行の数云々は国民どうしで、加害者達の殺害にいたる背景を調べる動機付けぐらいしか、価値はないように思う(もちろん私個人の価値観ではある)。
'080531.
'080611
今日の京都新聞を読んでいて思ったことだけど。”排除”という行為は、好き嫌いを別にすれば、裏表を持つ行為で、それは”≒格差”を作る在り方でもある。
住みよい環境を作ると、よく言われるけど、誰にとって住みよいかの是非は語られない。多数派のテリトリーを構築した集団の意見ばかりが通る多数決のみの
運営方法には、疑問を抱く・・・。司法的には、意見というのは問題要点の量的資源からみる賛成・反対の数(多数決)ではなく、原告・被告という問題要点の 質
的資源を吟味する、当事者間の対等性、が示されるようなのだが、・・・どうなのかな。
'080611.
死刑制度の抑止力ということに関しては、私の場合には、それは効いている。(制度自体は、武器と違って抑止力というより賠償システムとみたほうが、わか りやす
いように
感じる)。それに、武道を経験したひとなら、わかると思うが、武人が一番嫌なことは”死ぬ”ことではなくて、”殺される”ということである。(あたりまえ
のことだが)、抑止力は効く。
'080611.
<人の運命に思う>
環境Aに生きて・育てられて「甘ったれるな」と言う立場になったり、環境Bに生きて・育てられて「助けて欲しかった」と言う立場になったり、
人それぞれ対応能力にかかる体は同じではないし、それぞれの生活で出会う環境もまた同じではない。
生活共同体の成立要件である協力における共通認識にしても、ベースの認識の背景が大きく違ってしまうと、共有部分を抽出する作業において、
”気づく・気づかせる(=わかる・わからせる)”事の難しさが露呈するという現実がある。
その人が社会で、提示されたものから教えられたり学んだりして、吸収した考え方が生きていくうえで役に立たなかったら
(社会の現実が、彼の得た知識と違っていたら、そぐわなかったら・・・)、考え方変えるしかないやん・・・。考え方が変われば行動も変わるさ当然。
そしてその結果、他人であるCが見て、その人がCにとって歓迎するほうに変わったか、排除するほうに変わったかは、又別の問題ではあるが・・・。
社会構成人としての協力の対極にある行為をしたとすれば、国民である認識のあるなしに関わらず、おそらく、その加害者は高い賠償を払うことになるのは確か
だろう。
'080612.
<託された強制力とその濫用の構造的危うさ>
自分の自由は大事にするけど、他人の自由は奪いたがるし、奪える権力者。(それが権力というものなんだろうけ ど・・・)。
自分の自由というのは、自分の好みという事である。ここで言う自分には、単数・複数、どちらの場合も含めて述べているが、これが首長や大臣を指すも議会多
数派を指すも
同じで、権力者(複数可能)は往々にして常に権力者の生き方が全てであるとする。おかしいと思わないか・・・?多数決が、勢力の強いほうの決定が、常に判
断の唯一の
決定手段・基準というのは、......違うだろ?多数派(あるいは権力者側)が、いつも正しいのなら、人口の多い中華人民共和国やインド、また常任理事
国の意見ばかりが
通る事になる。法の下の平等というのは、勢力にゆだねる事ととは違うのではないか・・・。個別の事情が考慮されねば、公務の本来の意味はなくなり、公務員
の自己満足の 表現・強制執行となり、これは権力の濫用にあたるのではないか・・・・・・そう思う。
'080613.
'080704:今日の京都新聞を読んで・・・:
平野氏が述べておられることで、「殺人は駄目だと言っている社会自体が”悪いことをしたら殺す”では整合性がない。究極のことがあれば殺してもいいとい
うことを容認している社会である限り、 絶望の表現としての殺人が起こり続ける気がしてなりません」、とあったが・・・
悪いことをしたら殺す、ではなく、むごい殺し方をしたら殺しかえすという、ことなんだと思うんだけど、その違いは大きいと思います。それから、
殺人が駄目だというのではなく、殺しあうような過激な行動をとるより、妥協点を探すほうが、難しいかもしれないけど、国民として、価値はあるよ。というこ と
を暗示しているのだと思います。殺したければ、殺せばいいのです、が、それは相手にも所有できるはずの権利であることを、(特に法として)、
知っていなければ、アホだよ、ということだと思います。何の為に、武道や護身術に時間を割くのか、生物としての人の行動に、
争い(究極は殺し合い)が無くなるわけがない、その事実を認識している者が、武道や護身術や、セキュリティーに金や時間を費やすのだと思う。
(自衛隊の元司令官の言葉に、訓練しても役に立たないかもしれないが、訓練しなくては絶対役に立たない、という内容がありました)。
全てが自己責任ですめば、公務員は不要だけど、自分が何を選択し、何に対して備えているかの自己認識ぐらいは持っておいたほうが、私はいいと思います。
多分、彼は、司法への期待と行政への期待を混同しているのではないかと感じる。どっちかっていうと、行政(それを支える立法)が問題なのだと思います。
'080704.
'080707:今日の京都新聞の記事を読んで:
”汚名”や”不名誉な写真”ですが、まず写真については、”写真を撮られると魂を抜かれる”と思うか、”信号データの造形”であると思うか、その選択を する
自由性 (気持ちの柔らかさ)を持っているか、ということだろう。汚名のほうもそうだけど、意識的・無意識的に、視者が被対象者に、有形無形の脅迫の材料に使って
いる、その排除圧力の妥当性が問題なのだと思う。
'080707.
'080717:最近TVのニュースによく出る”責任・能力”に思う:
世の中に、"責任・能力"のある立派なやつが、犯罪なんて起こさないし。罪を犯す者は皆、すでに"責任・能力"が無いから事件をひき起こす。だからあえ
て精神科 医の判定は刑事事件に必要はない。参考意見・助言は、情状酌量・再確認の役に立つかもしれないが・・・人(a person Dr.A)による、人
(a person B)の心理分析、それ以上のものではない。
メチャメチャなことを言っているようだけど、これでも”意見・意思を伴う1票”の権利は持っているから、それで勘弁してほしい。
医者にかかる患者は、日常生活に支障をきたす、もしくは、きたす恐れがあるから、受診するので・・・。あきらかに他者を加害した犯罪者とは違う。
それに、どんなに精神が錯乱していても、”加害における結果・判断”は自覚しているものだ。(加害の効果を知らずに、加害しようとは誰も思わない
.......ということだ)。
'080717.
'080722:今朝の京都新聞を読んで:
映画監督の森達也氏は、「事件のたびに『絶対に許せない』との意見が相次ぎ、メディアを通して容疑者の凶暴凶悪さが増幅される。はたしてそういい切れるの
か」と問う。
彼は、マスコミの報道は取り上げ、しかし、犯上での加害者・被害者の、状況判断をしている司法のありようを述べていない(情報が入手できないせいである
のかもし れ ないが)。 また、人は生物であり、生物として生きていることを
意識していないようで、これでは結局意識上の傍観者でしかないだろう。それに個々異なる犯罪においても、単に”犯罪”と捉えて、その文章上の対応において
二者択一の図式を述べている。ここには被害者の襲われた時の危機感が感じ取れない。それに死刑制度においても、国民の対等性において、弱者とよばれる年寄 り・
女性・子供、たちに危害が及んだ場合の、腕力に劣る者、被害者の悔しさとかは(死んだ場合は他人が推察するしかないのだが)、”力ある報復性”の死刑制度 でしか
救われないだろう・・・。それとも殺されたら、それは弱いからだと、なかったことにしようとでもいうのだろうか?(泣き寝入りで済むなら、それでは何のた めに、
公務員を置いておく必要があるのだろうか・・・)。
また、冤罪においても、それは冤罪を図った者が処罰される問題であり、死刑制度とは別の課題だと思う。死刑の実行現場の悲情さを述べるなら、それと同じこ とを、
なぜ加害者がむごい殺し方で実行する前に、君はとめてあげなかったのだ?多分、できないだろう、それは、それぞれに生物としての限界を伴う、生活があるか
らだ。自分 が1生物であることを認めないでいる限り言葉の遊びに翻弄されるだろうと、私は思う。
ちなみに、森氏はそのコラムの文末に、「死刑、戦争、貧困・・・、そして格差。言葉は違うが、無条件に他者の生存を認めない点で一致する。それを肯定す るのも
否定するのも”私”だ。」と述べておられた。
死刑には被害者の実情があり、戦争には抗日戦争や独立戦争もあり、貧困は・・・格差もそうだが、外国の問題では国土としての土地の占有利用のありかた
及び子作りの要因があり。日本では、好き嫌いは別にして、安い労働力(安い産品)が外国で得られることが遠因ではないか・・・。これは国策・行政の方向性
の問題である と思う。
結局、彼も1情報に対する”好き嫌い”ということと、1情報の”分析”ということとを混同しておられるように思う。ちなみに、司法判断は基本的には
”分析”のほうで、”好き嫌い”は情状酌量の分で汲む形ではないか・・・、そのように感じる。
'080722.
<普通・病気>
普通じゃないから、病気にされる。普通というのを固定(定点として誰かが固めて)して、変化のありようを、計るということをしているのだろうけど、
普通というのは多数派をして指す、”平均値”を言っているにすぎないのではないか・・・。
現象が数集まれば、それは普通になる(みんなで渡れば怖くない・・・とか昔あったけど)。してみると、誰でもよかったという殺人のあり方が増えているの は、
結局現在の、殺人に対する民間の法的非力さ・甘さを、判決の甘さとして?、を、知ってか、知らずか、感じ取っているのではないか。
多分、その加害者は”自分達は精神的多数派”と錯覚し、普通の精神で、普通に殺人を犯しているのだろうと、私は感じる。
(兵士が戦場で敵とする兵士を殺害するように・・・緊張はするが、普通に・・・)。
追伸:精神鑑定もいいけれど、宗教国家ではないわが国においては、人の行為は、思想や精神で裁くのではなく、加害行動で、裁くべきで、
それが若干甘いのではないかという感じを持つこの頃(最近のニュースを観ていて思う)。
'080724.-'080818.
'080726:今日の京都新聞のイスラムの記事を読んで:
進化の視点に対し、
猿から進化したと言う(そういう教え方を学校でしていると、変な受け止めかたをして、こだわる)、ひねくれた受け止め方をするキリスト教や(私の出会った
のはアメリカ人と日本人)、イスラム教の信者の方の意見によく出会うが、
何で、そう”好き嫌い”で自然現象を解くかなあ.....と、いつも感じてる。猿(だけでなく他生物もあるのだが)と、共通の祖先を持つということが、よ ほ
ど気に入らない
のであろう。反動として、自己の優越感を、強く感じておられるのだが.....。”猿から進化”にしても、猿からヒトが発生した、という”創造説”から
頭が抜けられないことに
気づかれていない。.....少し頭をほぐせば、地球誕生から46億年(正確な年数は忘れたが)?、進化という段階をかけて、神がヒトを造られたという捉
え方もできるの に.....。だから進化を 教えることは、神のイメージを持つことを否定しているわけではないのだ。
だけど信者達は、自分達の考えと違うものは、神を冒涜(ぼうとく)したと(本当は自分達を冒涜されたと思っているはずだが神を前面に出す、
.....あたりまえだけど、神がヒトの意思などで冒涜や辱められるわけがないのだが.....)、殺し(究極の排除)にかかる。
キリスト教でも昔は、魔女裁判・宗教裁判、があったように記憶しているが。つまり、宗教によるヒトの起源を並び教えないのは、進化の視点が両方の受け取り かたを
包括できるからでもあるが、おそらく信者側の思想の唯我独尊的な実行性・過激性・排他性を、懸念しているからではないか。そのように私は受け止めている。
神のイメージが素晴らしいのではなく、信者個々人の(ヒト社会を含む)自然への接し方にヒト仲間としての快適さを見出すことがあるからなのだろうけど、
それでもそれはやはり、個人への尊敬の域を出ていることは、(イメージを膨らますことの好き嫌いは別にしても)、無いのだと思う。
ちなみに、物質の構造の変化・遺伝子の変化というのは、原子や分子(電子の働きも大きいだろう)が1個、くっついたり・離れたりするようなことの、あり
よう繰り返しで十分可能なのだと思う。 いろんな、サイズ・プロセスで、くっついたり・離れたりがあるけれど.....。
'080726.-'080816.
Memo:
<確率という概念>確率、(それ自体は極視にすぎないのだが)、データ(の方)に”傾き”があるのかもしれない。
傾き→自然界における(時間軸に沿っての反応性)方向性のようなもので、傾きが多いほど、自然界に近づくため、自然界の在り方にマッチする。あたりまえの
ことだが・・・。'090413.
<対称性>:この現実(物理的)世界は、(確率概念に観る、”傾き”にあたる)非対称性を持つとするのが自然である・・・、そう思う。'090414.
<初期進化の視点>確率視点において、”傾き”{今回は、この場合、摩擦、を論点にする.....}のあり方をもって見るに、
フラスコ内(also試験管内)では、摩擦は(摩擦による変化の刺激)は、無いに等しい。だから進化は、そのような内容でのフラスコ内ではほとんど進まな い。
進化の1要因にいろんなケースの摩擦があるとすれば・・・そう思う。ちなみに、放送大学のTV講座・(生物)では、実験により、原始大気下で、
アミノ酸の発生までは確認されているとか、述べられていた。'090421.
上の3個はキリスト教の(プロテスタント)牧師さんと話していて、考えたMemoです。
キリスト教では進化論は否定されているので、進化の視点を、僕がどう思っているか、語らねばならないのが、結構、しんどいので、自分なりに、まとめてみた
わけです。(^^;)ハイ。
'090421.
『復活』
何かで読んだが、★「言葉は現実と違う」。これはJesusの復活の議論にも言える。言葉が現実とは違うからこそ実験による再現で言葉による主張の
正しさを確かめるのが科学なのだが、復活は科学という”共通認識化の手段”で再現されるわけではない。つまり、科学的には、人の完全な復活は、遺伝子の育 成
という現実的なコピーの形でしかありえない。すなわち、傷口が残っての復活ということであるならば、つまり死に損なったというのが、妥当。それと、時間が
かかっても、
息を吹き返したというのなら、また、死んではいなかったという結論がでる。言わば、気絶状態というのに近い。死んでいる状態をどのようにイメージしている かの
違いもあるだろうが、最初に復活の期待ありきと、無しでは、冷静な判断に違いが出るのもまた事実だろう。そのことは共通認識としては妥当じゃないだろう
か・・・。
これは、教会では、頭を整理する時間がないので、自分の覚書として書いている。(友達はクリスチャンなので、つらいところだ・・・)。
'090607.
'080808:今日は、ちょっと病的被害者意識のうねりの狭間で・・・:
現在の憲法が保障している、思想や表現の自由、それが(そういったことが)守られない社会なら、その社会は排除されるべき社会ではないか。
そのような”理”も、現れる。そこに同時に課せられる、・・・それが”できるかどうか”という、現実的・実際性(合法的に、ということなのだが、法が守ら れな
い、 もしくは実情に合わない、そういう環境下で法に訴える行為というのは、少し無理があるようにも感じる)は別にしても。
・・・チャーハン食って、アイス・ウーロン茶 を飲んで、
エアコンと扇風機の風にあたって、スズメのチュンチュン言う声を聴きながら、赤の他人を・国を、愛すことの難しさを考えていた。・・・結局、国を愛す ることと、
社会を愛することは、別なんだと思える。社会を愛せなくても国は愛せる(社会は”人間関係”で、国は人をも含む”自然”だろうから)。
ちなみに、葬儀に何10万円も、何100万円も費やす金があったら、救える人は(ワーキングプアなど)、いくらでも居るだろうに、・・・。ということは、
結局、”社会は社会人個々の趣味で成り立っている集団”とも言える。(具体的な個々意識その趣味の好き嫌いは別にして)。ヒトはパンのみに生きるにあら
ず・・・か。
'080808.-'080816.
<平和と戦争>:
誰だって平和を望んでいるのさ、自分の都合のいい平和を。だから問題が起るんだ。
'080818.
憲法9条にしたって、述べていることは非常に危険だと思う。
実際、”他国民によるヒトの数とヒトの道具の暴力”を食い止めるには、止めるだけの”力”が要る。
その必要な力を武力というのだが、9条維持に固執するヒトに、
進行・侵略してくる軍という他国のエネルギーの塊を止める方法が他にあるというなら教えてほしい。国際的に、包囲しての城攻めにしたって、それは城を出
させないという
強大な力の裏づけがあってのことでできるのだから。相手の善意に期待する精神論の危険性は意識が口約束というような軽さを見せる”意識の側面”を考えてい
ないことにあ る のではないか。そのように思う。
たんに、争いが嫌なら、徴兵制の発生を阻止すればいいのである。それを認めるのが民主主義だから。多数派主義と民主主義は違う。
進行してくる軍力や、ミサイルでの核爆弾をちらつかす(ナイフ見せられて何の危険性も感じない国民ってそう多くはいないでしょう?持っているだけでも問
題なのは どうなの・・・日本国国家の視点としては)、 そのエネルギーの塊に、盾となる力を蓄積する妨害はするな。また、その盾が急場に間に合わないならば、
友好国との盾協力体制を築くのはあたりまえではないか。国民生活・国民生命に対する保険のような、友好国との盾協力体制を築く邪魔になる掟(憲法条文) は、
国民の生命財産を危険にさらす存在であり、憲法9条は本筋の憲法違反である。私はそう思う。
いまさらいうまでもなく、国政は、主権者たる国民の厳粛な意思によって政府に信
託されたものであり、それゆえ政府の権威は、神や君主など神話や特権身分には由来せず、国民にこそ由来するものである。 また、国家権力は、国民の中
から
選ばれた代表者が行使し、そこから生み出される多くの利益や幸福は、皇族や貴族など一部の特権身分が受けてはならず、国民全部が受けるべきものであ
る。
このような、人民の、人民による、人民のための政治という民主主義の政治原理は、古今東西を通じて、人類に共通してあまねく存在する不変の原理であ
り、こ
の憲法は、この原理に基づいてつくられたものである。 それゆえ、この民主主義の原理に反する一切の憲法、法律・命令および詔勅は、その存在を許さ
ず、わ れわれはそのすべてを排除するものである。
”「憲法制定の由来・理由および基本原理」前文”・・・より。
法のために人があるのではなく、人のために法がある。間違っているだろうか・・・。
'080928.-'081013.
イデオロギーの違いとか、冷戦がどうだとかじゃなくて、具体的に流動的な集団の力が押し寄せたときに、それをとめられるかどうか、それが公務員の考える こと
備えることだろうと思う。流動的な集団の力の規模は、それぞれ民族とか宗教とか集団のあるかぎり”国家レベルの争い”になるのは難しいことじゃない。
国家などなくなればいいとも思われるだろうが、ある種共同体意識のあるところ、それは行政府と同じであり、一国家の種なのだと思う。
'081001.
<出産>:
先程、human biology を読んでいたのだけど、偶然にも読んでいたページが、今日のニュースで”帝王切開で死亡, 医師無罪判決”
と報じられていたのと、同様に”妊娠”に関するページだった。
そこで思ったのだが、出血をどうするか、心構えを持たずに、手術に臨む医者が、
いるのだろうか?という疑問。手術では血管をあやまって切ることもあるだろうし、止血の為に、何をせねばならないか、
その準備をせずに手術に臨む医者がいるのだろうか、・・・だとしたら怖い話である。胎盤と子宮との癒着というほど厳しい症状ではなくても
胎盤はへその緒と絡んで血液の流れがデリケートに広がっている部分だし、出血するリスクは常にあるのではないか・・・。
癒着は、どの程度の組織結合か、その”程度”に判断が向けられたのだろうけど、癒着が判明した段階で、子宮の摘出のほうの選択をするべきではなかっただろ うか、
胎盤はいずれにしても外へ出す必要があるのだろうから・・・。聴いた話では壊疽が進んだ足は本人の意思に関わらず戦場では切りとるということを昔はやって
いたとか、
そのように記憶しているが、本体を生かす為に部分を排除したというのは、他に方法の無い場合の医療の原点ではなかったか・・・、止血ということの重要性 は、
私でも知っている。1滴1滴の出血でも止まらねば確実に死ぬ(これも猫の経験で知った)。手術の成功とリスク云々を語るより、命を救うこと、
出血に対処するってのは、医療従事者の基本ではないのか・・・。それに、(ものによるだろうけど)臓器としてまとまっている物は、出血が少なくて摘出でき
るようにも思うので、
本人が子宮の摘出を望まないとしても、”命を救う”ほうを選ぶのが、最優先事項ではないか・・・。(赤ん坊はすでに取り出しているのだろうし???)。
これは医者の出血認識においての過失であると思う。
追伸:私は猫の胎盤が胎児(死産になった)と共に、はがれ出たのを見ているから、胎盤が、はがれても出血が普通は起こらないのを、猫の場合だが、
知っている。(猫の胎児が膣口で停まって、それを産み落とせず苦しんでいたのを助けた経験から)。
'080820.
'080831日曜日京都新聞の定本ゆきこさんの記事『依存と自立』、を読んでの感想文:
助け合う形として上手な依存もいいのではないかということのようだけど、母と幼児のあり方はそれでもいいけれど、社会的には、依存は上下関係を伴うこと から、
私は分業というよびかたのほうが、より適切ではないかと感じた。
そこで分業という言葉を使って感想を述べてみる。分業はいい、互いの能力を尊重し助け合うのだから、しかし、ワーキングプアの固定化のような分業の姿で あっては
ならないように思う。同じ、生物としての
幸せも、分業では成立し得るが、依存では下請けのような格差を伴い、生物的幸せ本来の姿とは少しかけ離れてしまうのではないか・・・。王様と乞食の
ありように分業を感じるのと、 依存を感じるのとでは、民主主義のありよう自体も変質してしまうように感じるのは、飛躍しているだろうか・・・。
今、 依存しなくてはならない立場の人に、生物としての誇りを持つ、その裏づけに足るような気持ちを、力として与え得なければ、精神科の医者としては
不十分ではないだろうか・・・、そう思う。
'080901.
<民主主義と多数決>:
私的好き嫌いは別にして、”赤信号、みんなで渡れば怖くない”、そのような気持ちの人が多数決を主張する。総じて、口がうまい人達だ。
多数決で行動すれば、運営が、やりやすいということがある。内容の良し悪し好き嫌いは別にして、運営は主張を合成する力関係の結果行為だから。
ちなみに民主主義と多数決は別のもの。話し合いで合意に達せず、かつ、行動(助け合い)においても、往々にして双方が合点納得がいく前に・・・、
多数派が、数の圧力で自分たちの意思を押し通す形、それが多数決であるならば、民主主義とはまったく関係ない。多数派主義というなら言葉的には妥当なの
だが・・・。
その形は”平家にあらずば人にあらず”(勢力側の仲間でなければ排除にかかる・追い払う)、でしかない。しかし、少数派が納得し活動に参画して民主主義と
はじめて言えるのでは ないか、そう思う。
'080922.-'081010.
<多数決>:
最近の多数決は、多数決の使いどころが違っているのではないか・・・。生活の似た者が多い中、似たものどうしの多数で押し切るてのは、一番簡単な行為。
頭はいらん。 (多分、多数派は(他事においても)考えなくなる・・・かもしれない。・・・そうであってほしいと願う、力の足りない少数派の私(^^;)。
外国から敵がせまるなど、緊急時に行動方針を決める必要があるときなど、対応を多数派からまとめていくという安全管理上からの方法ではあるか も・・・。
しかしそれも”始めに外部ありき”、が条件での方法である。同じ国民主権というスタンスにおいて、内政にあえて使う方法ではないように感じる・・・。
その決に、まとめるという意味合いがあるからには・・・。多数決は構成員がバラバラの個性の場合に一番適切な方法であろうけれど、。
(多数決は構成員の質がバラバラが前提ともいえる)。その、まとめるという機能から、構成員が均質となると、多数決は死んでいくような気もする。生活も習
慣も好みも同じ なら、
強制力を伴う決議を、今更することなどは必要ないからだ。自分と生活形態が同じでないしかし同じ国民である相手を外部としての多数決はそぐわない。
極論多数決で死刑の執行など決まるようになったら、恐ろしいと思うのは私だけか?(私だけだったりして・・・(^^;)>
”多数決にそぐわない”課題、(特に個人の守秘義務にかかるような内容に関して・・・プライバシーへの介入)も、あるし・・・。
'081019.-'081028.
<高速道路>:
高速道路が、税金で行った事業なら、国民相手に商売をするなと言いたい。無料化が正しい。
商いをすれば、それがたとえ税金を資本とした商売であっても事業主(公務員)に、おれが儲けた、儲けた収入の使い方はおれに主権があると自分及び仲間を優 先した
使い方をし、公務・公務員の裁量意識から逸脱しがちである。
財政を考えるのは重要ではあるが、公務員として国民全てをサポートするための事業をすべきで、一部の利用者を対象とした商いをすることではない。
それは国家から国土を借りた民間がそれぞれの営利目的のために、行うことだからだ。
高速道路は有料にしないと、車で込むというアホもいるが、確かに車は高速道路に増えるかもしれない、が、同時に、1人の運転手が2台の車を運転すること も
できないことから、一般道が空くことになる。込めばあいているほうを使えばいいので、それでも高速道路に車が渋滞するなら、道路自体のありようを見直せば
いいのである。
公務員にとって、財源は結局税金だけであり、だから公務・員なのであり、公務員が事業で収益をあげるというのは、公務本来の目的とは合致しないのではな いか。
国民全体に必要なこと・事業なら、税金を使えばよいことなのであって、運営費が足りなければ、あるだけで工夫し、人件費を減らし、調節して、
それでも足りないのなら、その説明を国民に示し、国民の意思の代弁者である国会議員を説得し、徴税税収を頼めばいいのである。
民主党はそれを言っているのだろうから、勝利したのだろう。
'090831.
<沖縄の米軍基地に思う>:
期限を決めて、沖縄の、米軍基地の代わりになるだけの、ミサイル戦略網を作ることにすればいいのだ。中国の物量・人海戦術にも耐えるだけの量と質のミサ
イルを備えることにすれば、米軍基地は要らない。米軍基地は攻撃能力の高い海兵隊だけど、日本の専守防衛のあり方を採るだけなら、兵器の質と兵器の物量で
補えれば代用できる。中国も他国の暴走人民の流入を防ぐための軍隊を持つし。国家として、また国家公務員として他国の暴走人民の流入を防ぐための装備の向
上は国家を存続し続ける以上必要な対応である。大陸国家が海軍を増強する、これは、島国国家の存亡を危うくする行為である。これに対応・対処できない公務
員ならば国家公務員の資質に問題がある。本気で国の防衛を考えるなら、同盟国の援軍基地などあてにせずに自力で他国のエネルギーの暴走に対処できる工夫を
はかるべきである。
'100516.
<国民の裁量権>:
国民には性生活の裁量権とか、公務員を選ぶ裁量権とか、あるはずなんだけど、何故か、多数派を背景にした王様(公務員)の権利だけが主張されて、
国民の裁量権は日の目を見ない。国民の裁量権とは、幸福追求権及び国民主権を含むと、私は判断しているのだが・・・。追求権とか主権とか、何か肌にそぐわ ない
感じを受けるので、国民裁量権と述べているわけで・・・。選挙の時期になると、国民主権の影の薄いことよ、と感じる。
国民主権というのは、選挙権という、ペットが飼い主に、こちらの餌のほうがいいと、”主人に選択を示す権利”だけを指すこととは違うはずです。
だけど、そのように感じてしまうほど国民主権が疲弊している。民主主義が王様を選ぶシステムでもあるのは仕方ないとしても、本当に国民のことを考える
王様であるのだろうか・・・、国民を縛ることには熱心で、本来の国民の裁量権の重さをないがしろにされているのではないかと年寄りとして心配する。
判断・決断するのは多数派を背負う、1政治家という王様であり、1国民ではないということかな・・・。
やはり主権があると明記された国民の裁量権が見当たらない。ちなみに、
国が疲弊するのは、ひとつに、国民の裁量権を奪うことにあるのではないか、そんな気がする。(北朝鮮が良い例だと思うが)。
'100815.
<空母>:
中国が空母に着手するそうだ。それは、日本に核装備の準備を図ることになる、と言う、それぐらいのメッセージを、政府が送れないと(出せないと)、
公務員とはいえない。ちなみに、核兵器は汚いむごい兵器だが、兵器は暴走する力に対して、汚くむごくなければ、暴走は止められず兵器とは言えない。
破壊力というものも両刃の剣で、暴走する力に対して、適切なサイズの兵器というものが有効であることは、警察官の拳銃を見ても、わかる。
空母は、暴走する力の前方展開力を確保するものである。ある日、条約を結んでもいない乗組員が空母を横付けするのが突然日本の港だった、では話にならな い。
'100821.
<推考>:
ラストバンパイヤの一部をYouTubeで観たが・・・、刀だが、残酷なシーンである。これは作り物だが、戦時中の日本軍による刀や銃剣での処刑をも連想 し、
写真や映像で知る核兵器のむごさと変わらない感じを受けた。争いは嫌だな・・・。でも戦わねばならない時がある。
相手のあることだし争いは嫌だで済む話ではない。暴走する力は、止めねば、巻き込まれて死んでしまう。もしくは隷属することになる。そのどちらかしかな い。
大陸の大国、中国が空母を持ち出すということで海へ走り出すとあれば、やはり日本国は核装備を、できるなら、図るべきである。
それとも北朝鮮が言うように、アメリカの一部としての衛星国家になり最終的防衛を委ねるか。
戦術核でも核は1発で空母を沈めることができる、はずであるからして。戦術核搭載の巡航ミサイルが備えてあれば、それほど中国を恐れずともいいわけだ。
しかし、空母などを沈めたとなると、ICBMなどの報復があることも想定せねばならない。してみると日本国にもICBMもしくは中国を射程距離に収める
水爆積載ミサイルが欲しいところだ。ミサイルのネーミングには”かんにんどすえ1号”とか、”ごめんやす1号”とか、穏やかなのが日本的で良いと思う。
(^^;)えへへへ。
でも、日本国もイージス艦を導入していることを思えば、自衛隊も真剣に中国の脅威を感じているということなんだろう。ありがたいことだ。
それに比べて、経済効果と称し中国をお客さんと、浮かれているマスメディアや、商人は、どうなんだろう。多分、国家戦略など考えない人になってしまってい る
のではないか。当然かもしれないが、マスメディアはマスメディアの、商人は商人の利益しか考えない。
だから裁判員制度のように、国民参加の意識啓蒙が掲げられ始めたのかもしれない。国民主権の重さを考えてくれよとでもいうかのように。
ちなみに、国民の裁量権を思えば、核装備をするしないも、国民各人の判断・決断にかかっているとも言える。すなわち僕が判断しても良い決断しても良い、
ということさ。OK.。とりあえずは、1票の形態をとり、政治家の裁量権に委ねるにしても・・・だ。
'100822.
<思想>:
『考え方は、その人の環境を含んで成立している、意識の在り方だと思う』。
'100929.
環境は選べるものではなく、初めにあるのだから。ヒトができることは、あとはそのやりくりだけ。他人が見て、その上手下手はあるけれど。それも結局他人 事。
'101001.