<<自然に思う>>

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 ←最近の私です。目つきも悪くなって、めっきり年齢を感じました。平均寿命にはまだ少し猶予がありますので、いろんな意味で勉強していきたいと 思ってお り ます。 目つきの悪い年寄りで思い出すのは、何とかイソジ?だったかの剣の達人。警察官にも、目つきの悪かった人がおりましたから、目つきと人の価値は連 結してい ないのだと 思う...、だからこれも個性のうちだと、あきらめております、ハイ(^^;)>
'090109.



 秋も進み、ベランダの次郎柿の実も薄く橙色の兆しが現れてきてる。アルプス乙女の小リンゴの実は赤くそまり始めて時々切り取って食べてみると、 やっぱ り” リンゴの味”がしてなにやら嬉しいこの頃。
'0609aa.

 アルプス乙女は40個くらいだったろうか。(全ておいしく食べた)。次郎柿は30個できて順次食している。 9号鉢では30個が限界であるように思った。今年はミカンは裏年で実は1個だけだった。禅師丸の柿は10個ほどついている。渋柿のようなので干し 柿にしよ うかと思っている。
'061128.

 今年は次郎柿も少ない。温州みかんも少ない。でもブラックベリーがたくさん実をつけている。30個はとれるだろう、 それにアルプス乙女(小りんご)が今年も数十個実をつけている。楽しみである。しかしうちのブルーベリーは、もひとつおいしいとは思えな い・・・。日当た りのせいか、 そういう果実なのか。
'070612.

 昨年は、多分今年も、ブドウ類はダメなような気がする。木に樹勢を感じられない・・・(不明の昆虫により幹に穴開けられていたブドウも あった・・・)、 ベランダの総陽光量の奪い合いで、手すりより下に茂るタイプの果樹は、どうしても日陰の時間が多く、劣勢に落ちてしまう。 ちなみに私は、「生物」の知識を果樹の育成に取り入れてはいるのだが、そこはそれ、専門家ではないのでどうしても対応が大雑把になるのは仕方ない ところで ある。 (^-^)。はははは、笑うしかない。思えば、若い頃は全て種から育てていたが、7年ほど前の入院中に全滅したことでもあり、もう寿命が残り少な いので、 それからは苗から育てることにしている。(一人暮らしのつらいとこかな・・・)。
'080305.

 サクランボが結構甘くておいしい。ブドウはデラウェアの花芽房がたくさんつき、その病気でない?幹部分からの枝ぶりに樹勢があってとても 嬉しい。 しかも懲りずに?種から育った巨峰の樹勢も、強くて頼もしい。ブドウは枯れるものとして採取できた種を予備としての育苗をしている私・・・。 (^▽^) v。
'080510.


 花ひろばオンラインさんによると、デラウェアの幹に穴をあけたのは、やはり昆虫でした。鉄砲虫という呼称があるようです。
 それはさておき、今年はデラウェアが、よく実ってくれて、現在、色付き熟すのをまっているところです。無事に収穫できればいいのですが、楽しみ です。 (^^)。ブラックベリーは毎年僕一人が食べるのには十分な量が収穫できるので、(なぜか小鳥はサクランボは食べるのにブラックベリーは残してく れる)満 足です。 おいしいですよ熟したブラックベリーは。次郎柿は不作で、1個だけ実が残りました。温州みかんは順調に青い実がふくらんでいます。禅寺丸の渋柿は 適当な数 だけ育っています。ラズベリーゴールドは日差しから遠い位置にあるせいか、今年は実が見られません。(まだ木がオトナになっていないものも含め て、けなげ に育っています)。アルプス乙女の小リンゴは適当な数だけ青い実が順調に大きく育ってきてます。よしよし。(^^)。
'090721.




<創造主>:
 創られた・造られた・作られた、(と言う行為には)→人に似た形あるものが、(作り主として)必要になる。それがヒトという”管理を行う存 在”、が持つあこがれイメージ、「より大きな管理する者」それが”神”と名づけられた「ヒトの頂点に立つ意識的仲間」の始まり起源であろうと思 う。あ こ がれ”イメージ”、なのである。神から自然現象を取り除いたら何が残るかという。
'061019.

<創造主>:
 命が作られたとは信者は言うが、発生したという受け取り方はしない。(発生したという受け止め方は意識的には心細いのかもしれないが)。 自然のしくみがよくわかっていなかった時代のヒトを含めた自然への不安を解消するために、発明したヒトの意識の影ではあったろう・・・創造主とい う言葉 は。 それは現代の科学のように自然界を解釈する手段としての、よりどころであったのかもしれない・・・、人生の羅針盤のような。
'070612.



 ちなみに、管理するってのは所有するってことさ。重要なのは所有権がどこに属しているか・・・。人の意識の中においては、公共所有の場合 もあるし、 個人所有の場合もある。昔は神という最大の管理者を想定することで、自然に属する野性動物には所有権を主張しないというのが暗黙の了解のようなも のだった けど、 自然現象が解明されるにしたがって、神という存在が自然現象から想定した”イメージ”であることがわかってきて、主の居ない大自然に、あらゆる人 間集団が 自然界に所有権を主張し始め、野生動物のペット化・玩具化が、自然破壊と共に進行するという結果をもたらした。・・・そこで、生物の意識を重要視 する私と しては、 管理が避けられない現実ならば、せめて、自己のテリトリー内では、ペットを含む野生動物には自分の主人・帰属先を選ぶ自由が保持されることを願 う。 ペットは”反応する玩具”ではないのだ・・・。そのように思う。
'080525.



 私の大好きなスミレの花です。女性に、すみれという名前をよく聞いたことがありますが、納得できる気がしました。'080615.